藤川球児

え〜っと、これからはたまに偉そうなコラム(のようなもの)を書いたりしてみたいなと思います。


さて、第一回は球児くんです。

彼は松坂の外れ1位で入団しました(確か)
ノムさん体制の元で何度か先発するも、中途半端な成績しか残せていなかった。と記憶してます。(横浜スタジアムでまだ無名の井川先発、藤川先発の試合を連日で見た記憶が…)

まぁ名前がインパクト大ですから、存在はちゃんと認識してましたが、そこそこのカーブ、フォークと、140kmちょいの真っ直ぐを持つも、球がばらつく普通の若手としか感じていませんでした。

当時の阪神の投手育成は(今もそうかな)そこそこコントロールのあるピッチャーの球速を上げるのが得意という印象だったので、この選手はどうなんだろうと思ってました。

2003年、星野新体制に入って2年、約3分の1の選手がクビを切られ、下柳、金本、野口、中村豊などの新しい選手が入ってきました。(好きだった坪井も出されてしまいました…)
ですので、残った選手の中に球児の名前を見た時は、「あ〜残ったんだぁ」と思ったのを覚えています。


その中でまずまずのスタートを切り、東京ドームに乗り込んだ、その年最初の巨人戦。2003優勝を振り替える時、しばしば引き合いに出されるあの試合で、背番号92(きゅうじ)を背負う彼の姿を久々に見ました。

ご存知の通り、後藤にホームランを浴びてしまいます。

その時投げた球はフォークでした。

試合後、星野監督は自らの非を認め、選手達に頭を下げたそうです。
そこから阪神悲願の優勝に向かって進んで行くのですが、それも含めてこの試合についてはいつか書くことにします。

一方、手痛い一発を貰った球児ですが、その年も一軍に定着することはできませんでした。

翌年、大学生になった私は祖父母宅に遊びに行くべく、滋賀県を訪れます。

関西の方はご存知でしょうが、あちらにはサンテレビという阪神戦をたくさん中継してくれる素晴らしいテレビ局があります。
そこから中継を繋いでくれたびわ湖放送で、大阪ドームでの横浜戦を見ていた私は、ふと気付くワケです。
その年私は、新生活が始まったことや、サッカーに出会ったこともあり、野球を見る機会があまりありませんでした。(前年に優勝しちゃったというのも理由の1つでしょう)

そんな私が久々に見た阪神戦で、私は背番号92の姿を認めます。

彼は矢野のサインを両手を膝に置く偉そう(失礼)なポーズで見、頷き、セットポジションからとんでもない球を投げ込みます。




152km




私は球児が152kmを投げ込んだことはもちろん、何よりもその球筋に驚きました。


高めに構えた矢野のミット目掛けて、それは真っ直ぐに糸を引くように飛んでいきました。まさに「飛ぶ」という言葉がピッタリで、私は久々に鳥肌が立ったのを覚えています。



その年は優勝争いには加わらず、結局4位になったワケですが、翌年彼は、JFKの名の元に、二年前には味わうことのできなかった美酒を味わいます。


さらに次の年、WBCが開かれます。ちょうど野球規則が改正され、いわゆる二段モーションが規制される中、球児もその対象となり、フォーム変更を余儀なくされます。調整不足が心配される中迎えたWBCアメリカ戦、彼はサヨナラ負けを喫するのですが、帰国後、彼に対して騒がれる不安は、全く私の耳には入りませんでした。なぜなら、




あのアレックス・ロドリゲスのバットをへし折った。





この事実があったから、私は特に心配していませんでした。


球児が今の真っ直ぐを手に入れたのは、フォームを改造してからでした。

後藤に打たれたあの年。優勝の輪に加われなかったあの。年齢的にも解雇を意識しはじめたあの年を終え、彼は当時の投手コーチ(山口?)から一言アドバイスを貰います。


「なぁ球児、右足ちゃうか」


それまでの球児は力のあるボールを投げるべく、深く沈みこんで投げるフォームで、右膝にはいつも土がついていました。

その影響で故障も多くなり、あまり活躍できなかったという背景もあります。

右膝を意識しはじめ、上から投げ下ろす感覚を自分のものにした球児は、2004年夏、素晴らしい真っ直ぐと共に一軍に帰ってきました。


そして今も、投げ続けています。


連投が続き、(去年からずっと)疲労が気にされていますが、元々怪我を防ぐために変えたフォームです。相当な無理をしない限り、彼は投げることができるでしょう。




あの、プロの選手が待っていても、ボールの下を振ってしまう真っ直ぐを。
中腰の矢野のミットめがけて。